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インタビュー

ピークは高校2年。私がプロサッカーの世界で知った現実と得たもの/木下 正貴

■プロフィール
木下 正貴(きのした まさき)
1989年6月22日生まれ/兵庫県たつの市出身
【経歴】
・元ガンバ大阪のゴールキーパー(GK)
・高校2年の時(ガンバユース)にガンバ大阪でプロ契約(2種)後、
ロアッソ熊本、ヴァンフォーレ甲府、JFLのAC長野パルセイロなどに在籍
・日本代表経歴:U-15~U-19まで世代別日本代表に選出
・7年のプロサッカー選手生活を終え引退後、飲食店の店長など経て、アスリートのデュアル・セカンドキャリアを支援する株式会社canteraにて人材紹介サービスに従事

目まぐるしく社会情勢や環境が変化した2020年。働き方も多様化し、選択肢は一気に広がりました。選択肢の増加とともに、何を軸に働くのか?どんな思いで仕事と向き合えばいいのか?さまざまな悩みを抱える人も多いかと思います。

そんな「働く」ことをテーマに今回は、ガンバ大阪などJリーグのプロサッカー選手の経歴を持つ木下正貴さんに少年時代からの輝かしいスポーツの経歴から現在、会社員として勤務するまでの経緯・軌跡を追ってみました。

片田舎のサッカー少年がはじまり

兵庫県の御津町(現たつの市)で生まれ、のどかな街でのびのびと育ってきました。
サッカー一家ではなかったので、幼少期は一般家庭でよくある遊びで兄弟や父親と野球のキャッチボールをしたり、ボールを蹴ったりしていましたね。サッカーを本格的にやりはじめたのは、小学3年生のときです。
2つ上の兄が地元のサッカーチームに入っていて、監督も幼なじみのお父さん。とりあえず入ってみるか!という感じでした。

入ったサッカーチームも、ガチガチのクラブチームではなく、同じ小学校のサッカー好きが集まったような地元に根付いた少年団。
「遊びながら個性を大切に、サッカーを好きになってほしい」という方針を持った監督だったので、最初はポジションも固定されることなく、単純にサッカーを楽しんでいました。

ポジションが固定されたのは、はじめて公式の大会に出たとき。しかも、単に「身体が大きいから!」という理由でゴールキーパーに選出されてしまって…小学生あるあるだったのですが、当時は内心、華やかに点を決めるフォワードのようなポジションに憧れていました(笑)

でも、そんな思いが遠征で行った広島での練習試合の時に大きく変わりました。その時に見かけたチームのキーパーが広島のナショナルトレセンで選ばれた実力のある人で、「めちゃくちゃ上手い、負けてられない」と触発されました。

そこからGKというポジションでの向上心も芽生え、小学6年生の最後の大会でチームとして県ベスト4まで勝ち進むことができました。

環境が一変。
高揚と葛藤の日々

小学校卒業後、そのまま地元の中学校へ進学し、チームも変わらず同じメンバーでサッカーに励んでいました。

同じ地域に住んでいたメンバーで構成したチームだったのですが、サッカーを始めるきっかけになった兄で元Jリーガーの木下真吾や、現浦和レッズの柏木陽介選手など、今思うとポテンシャルの高いメンバーが偶然にも片田舎の同じ地域に住み、同じサッカーチームで一緒にプレーしていたこと自体が奇跡的なことだと思っています。

中学入学から半年後、監督から「兵庫県のU-13兵庫県選抜を受けてみないか?」という言葉で転機が訪れました。結果、選抜に見事合格し、練習に参加したところ、Jリーグの下部組織に在籍する選手や有名なクラブチームの選手がほとんど。

しかし、追いつけないという感覚はなく、“やれる”という直感がありました。そこから猪突猛進でサッカーに取り組み、兵庫や関西選抜など世代別の選抜に選ばれ続け、国内から将来性のあるメンバーを厳選し、育成するナショナルトレセン合宿にも参加しました。

その後、中学3年生のときにはU-15日本代表に選出。このときの気持ちの高まりと、周囲からの注目や期待は今でも覚えています。
そして、JFA(日本サッカー協会)から日本代表としてブラジル行きの案内が届き、はじめて海外戦にも挑戦しました。このときも実力に大きな差を感じることなく、海外の選手に引けを取ることなく、“勝負できる”と思っていました。

しかし、この頃から、「自分は日本を背負う選手だからこそ下手なミスはできない」など、自身の経歴に対し、気持ちや心が追いつかなくなっていましたね。当たり前のレベルの高さや責任の重さに押し潰されそうになるときがあったほどです。

夢中で駆け上ったプロへの道

高校進学前には、Jリーグチームや全国選手権の常連校など、10校ほどオファーをいただきました。地元であるヴィッセル神戸に気持ちが傾いていたのですが、兄の後押しもあったことからガンバ大阪のユースへの入団を決断しました。

高校1年生から試合には出られたものの当時、周囲のレベルの高さから、「もっと上手くならなければ」という焦りでいっぱいでしたね。ガンバ大阪の同学年では元日本代表の安田選手、同世代では、現名古屋グランパスの柿谷選手やセレッソ大阪の清武選手もいましたから。

実力のある選手ばかりが集まってきているので、当たり前ですけど、本当にみんなめちゃくちゃ上手くて。そんな環境でサッカーができたのは、とても良い刺激でしたね。

高校2年の3学期には、2種登録でプロチームの練習や試合に帯同していました。プロの練習を目にし、肌で感じると、自分のプレースタイルの違いに気づかされましたね。
それまでは、「キーパーは止めてなんぼ」というメンタルとフィジカルだけに頼っていましたが、頭を使って戦略を立てる重要性を学んだのです。

他にも、DFへのコーチングや周りの使い方、連戦に向けた疲れを残さないためのトレーニング方法など、がむしゃらに身体を使う方法以外にサッカーへの取り組み方を学ぶこともできました。

・・・華々しいプロ人生。のはずだった

そして、高校2年生の同時期にガンバ大阪でプロ契約を結びました。これまで頑張ってきた自負もそれなりにあったので、プロとして通用するようにもっと頑張ろうと心を決めたのです。しかし、プロの世界は想像をはるかに超える厳しさでした。

プレーだけでなく、食事や睡眠など、プライベートでのセルフコントロールも常に高いものを求められ、遊びたい気持ちがいっぱいの高校生だった当時の自分にとって、これらの環境は苦しかったのが本音です。
今思い返してみると、プロになって自覚がまったく足りなかったのですが。

その後、公式試合に出られない日々が続き、2009年に期限付きで当時J2のロアッソ熊本に移籍になりました。新たに奮起し、移籍1年目で公式戦22試合に出場できました。

“10戦勝ち無しから、10戦負けなし”へと、成績も右肩上がりとなり、翌年にはよりチームに貢献できるようにと展望を抱いていたのですが、新選手の登場によって、第1GKのポジションが奪われてしまったのです。

それでも、気持ちを絶やさないように毎日練習に励んでいましたが、試合への出場は見込めず、ヴァンフォーレ甲府に移籍することになりました。

当時、チーム自体は、無敗優勝でJ2記録をつくったほど絶好調でしたが、私自身は移籍後一度も公式試合への出場はできませんでした。
23歳のときにAC長野パルセイロに移籍するも、そこでも日の目を浴びることはありませんでした。

J1からJ2、JFLへと移籍を繰り返す屈辱感と自分の力を信じられなくなっていることもあり、7年のプロ人生にピリオドを打ちました。

戸惑いだらけの社会人デビュー

ずっとサッカーだけをしてきたので、引退当初は、会社員として働き先も知らない、仕事の仕方もわからない状態でした。バイトすらしたことのない人間だったので、最初は社会の風当たりも厳しかったですね。
しかし、就職活動中に知り合った社長とのご縁で、飲食店で勤務させてもらえることになりました。

勤めはじめた頃は、サッカー選手時代との生活サイクルの違いに、身体も心も驚きの連続でした。でも、働いているお店にサッカー選手時代に知り合った人や、ファンの方が足を運んでくれることもあって、しんどさと同じだけの喜びも実感していました。

飲食店で6年経験を積み、そこから他の飲食店、バーでの勤務なども経験し、社会人としての経験がサッカー選手として過ごした期間に近づいてきた2019年の冬、長男から突然「次男の兄が大変だ」と電話がかかってきたのです。

過去に次男の兄もプロサッカー選手として活躍していたことから、引退後のキャリア形成につまずき、心を病み、社会復帰が出来ない状態だったのです。
ちょうどそのときに、付き合いのあった現勤め先の社長から、アスリートのデュアル・セカンドキャリア支援をする会社を立ち上げるので一緒にやらないかと声をかけてもらっていたのです。

私自身がアスリートとして苦悩した経験、引退後うまく社会に出られなかった兄のことなどを含め、自分にしかできないビジネス・仕事があるはずだと思い、この仕事に就いています。
今支援しているのは、大学4回のスポーツ学生の就職支援、現アスリートのデュアルキャリア、引退をしたアスリートのセカンドキャリアの紹介・サポートです。

失敗を恐れず進み続ける大切さ

選手時代の最後には、引退という言葉が近づく中で、将来が見えなくて何度も不安を感じていました。しかし、プロサッカー選手という経験があったからこそ、得られたものもたくさんあります。

初めてお会いする方にはこれらの経歴をPRすることで自分のことを知ってもらうキッカケやコミュニケーションを図る上で最大の武器になっています。
無駄になる経験なんて、なにひとつないのだと今でこそ実感しています。私自身、このことを「万能の鍵」と呼んでいます。

そして、選手時代、今の会社員として大切にしていることは、どんな環境でも「今よりもっとという気持ち、“向上心”を忘れない」ことです。
たくさん失敗しても、前を向いて挑戦し続けることによって新たに見えてくるものがあると信じています。「トライ&エラー」の経験を繰り返しながら、道を作っていけばいいのです。

私自身はサッカーを通して“なりたい自分”を模索してきましたが、どんな仕事であっても理想の自分を見つけることはできると思います。仮に今ネガティブなことに直面していたとしても、視野を広げることでポジティブなこともあるはずです。

もし、現在あなたが好きなことが分からない、働き方に悩んでいるのなら、まずは行動してみてください。
好きなことを探すために自分の足を使って興味のある仕事や知見がある人に聞く、そんな行動が自分らしさを見つけていく一番の近道なのではないでしょうか。

私自身、自分の人生を語る上で、サッカーは欠かせないものです。もし、もう一度人生をやり直すことができたとしてもサッカーとの出会いを強く願います。
好きを仕事にできたこと、今につながっていることをとても誇りに思います。これからもサッカーとの出会いを大切にしながら未来を描いていきたいです。


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Written by

HAKU

HAKU

大手人材会社にて、法人営業を経験後、制作部門に異動し製造、IT、飲食、エンタメとあらゆる業界の上場企業からスタートアップのベンチャーなど、10年超のキャリアにおいて約3000社以上の企業の取材・制作・ライティングを実施。関西の制作責任者を務めた後、フリーランスにて活動を開始。

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