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インタビュー

人生を後悔しないために。自分らしくいる

#転職 #海外移住

■プロフィール
・山中 恵美子(ヤマナカ エミコ/岐阜県出身)、37歳。
・高校在学中に足を運んだ留学センターがきっかけで海外留学を決意。
・カナダの語学学校へ進学後、旅行業界を学ぶため短期大学に。
・その後在学中に出会ったクロアチア人と結婚。
・日本に帰国してからは『Twitter Japan』『Indeed Japan』などの
外資系企業にて、イベント企画やオフィス管理などを担当。
・テレビ番組に触発され、マレーシア移住を決意。
・2020年11月、2週間の隔離生活を終え、マレーシアに移住。

大手企業や正社員として働くことが理想だとされていた昔に比べ、今では働き方が多様化し、選択肢も広がりました。選択肢の増加とともに、何を軸に働くのか?どうやって仕事と向き合えばいいのか?さまざまな悩みを抱える人も多いかと思います。

そんな働き方に悩む皆さんに向けて今回は、コロナ禍中でマレーシアへの移住を決意した山中恵美子さんにインタビューを行い、これまでの経歴から現在の仕事に就いた経緯を迫ってみました。

いい子でいたい。優等生だった子ども時代


幼少期は、大人が苦手でとても内向的な性格。一人ではどこへも行けず、アイスを買いに行くのですら活発な妹についてきてもらっていたくらいです。
そんな内向的な性格を見かねてか、母はさまざまな習い事をさせてくれました。

母がピアノの先生だったので、ピアノにはとても熱心に取り組み、コンサートにも出ていましたね。その他にも、スイミングそろばんなど、いろんなことにチャレンジさせてもらっていました。

小学校では、クラスの中心にいるような子どもでした。男女交えてドッジボールをしたり、秘密基地で遊んだり、遊んでいるときが本当に楽しかったです。


中学校に入ると、校則や環境が厳しくて。小学生からお姉さんになって、少し自由が手に入ると思っていたのに、出鼻をくじかれた感じがしました(笑)。

部活はハンドボール部に入部して、毎日練習に打ち込んでいました。中学時代の自分を一言で表すと部活少女!と言う感じです。チームのみんなと過ごす時間が、とっても楽しかったのを覚えています。

想定外だった海外との縁


高校に進学してからは、これまでの反動のように遊びを謳歌していました。普通の女子高生として毎日を楽しみ、なんとなく大学に進学する流れなのかな、と。

そんな高校2年生のときに、両親に留学センターに連れて行かれて…。今まで特に英語に興味はなかったし、何なら英語はテストでは赤点だったのに、なんで?と思いましたね。

後から知ったのですが、両親はもともと英語を学ばせたかったようで、恵美子という名前も海外で「エイミー」と呼びやすいことも考えて命名していたと。知ってとても驚きました。

私自身も高校3年生の進路決定の際には、留学に前向きになり、アメリカの語学学校で学ぼうと決意していました。

しかし、2001年9月11日、信じがたい映像と情報が飛び込んできたのです。アメリカ同時多発テロ事件が起こったことによって、アメリカの語学学校への留学は白紙になり、留学先をカナダに変更することになりました。

思い通りにいかない、はじめての海外生活


カナダに留学へ行ったものの、語学力がなく、周りの人ともうまくコミュニケーションが取れずにホームシックになりました。
毎日泣きながら両親に電話していましたね。学校での会話も英語、ホームステイ先でも英語、言葉が通じないとこんなにも辛いのか、と落胆していました。

そんな状態でも1年間なんとか英語を学んで習得し、次の年からはバンクーバーで2年間、ビジネスコースを専攻し新しいことを学びました。

ビジネスコースでの学びから、「旅行業につきたい」と考えるようになり、旅行業界を目指す人向けの短期大学に進学を決めました。

バンクーバーで過ごした2年間は、自分と同じような日本人留学生と一緒にいることが多かったので、現状を変えるためにも、トロントから程近い、ハミルトンに移住しました。

ハミルトンでの生活はとても充実していて、短大も無事に卒業し、インターンシップ制度を使ってホテルのフロント業務をしていました。このままカナダで就職を考えるにも、このときの私は、学生ビザでした。

そろそろ切れてしまう、どうしよう、と悩んで出た答えが“結婚”だったのです。相手は以前からお付き合いしていたクロアチア人で、しばらく一緒に暮らし、カナダで仕事をしていました。

とてつもないスピードで駆け抜けた20代だった


ビザの関係上、私は日本に一時帰国することになり、名古屋の実家に戻りました。その後、ツアー添乗員へ。
2年ほど国内のツアーを担当して資金を貯め、結婚式をあげるためにクロアチアに渡りました。そのまま新婚旅行をかねて、半年間ヨーロッパを巡ることに。

カナダからクロアチアに戻った彼も「日本で一緒に生活したい」と言い出し、日本で暮らすことになりました。

大黒柱として働くことになった私は、英語の仕事を探すもなかなか見つからず、「とにかく働かなきゃ」と一心不乱にいろんな仕事をしましたね。そうして、就職したのがお見合いパーティーを企画するブライダル関連の会社でした。

この会社での仕事は自分にとても合っていて、お見合いパーティーの運営や企画、モテ力アップ講座の講師など幅広いことに挑戦させてもらいました。

自分の経験を通じてアドバイスもできるし、人と話すことが好きだし、とてもやりがいがありましたね。最終的には、名古屋支店長としてブライダルアドバイザーにもなりました。

仕事が充実していく分、毎日朝から晩まで休みなく働いていたので彼とすれ違いも増えていきました。特にお国柄、彼は家族を重んじる文化の中で育っていたので、私の生活が理解できずにいて…。

夫婦としての溝は埋まらず、結婚から5年経った29歳のとき、離婚することになりました。

自分らしさは加速。ただただ走り続けた


離婚をきっかけに名古屋を離れ、東京に拠点を移しました。英語を使った仕事を望む気持ちは変わらなかったので、外資系を中心に就職活動し、結果、契約社員として『Twitter Japan』に入社しました。

外資系の会社は食事も会社で用意してくれるし、上司との会話もすべて英語。思い描いていたような社会人生活に、胸が踊っていました。

職種はオフィスコーディネーターという、日本でいう総務業務。施設の管理やパーティーやイベントの企画を任せてもらえ、自分の仕事で社内の人たちが楽しんでくれているのがすごく嬉しかったです。

契約社員だったので、正社員試験にもチャレンジしました。しかし、道のりは遠く、9回の面接を突破しましたが、最終面接で落とされてしまいました。

正社員になるか退職するかの選択肢しかなかったので退職し、その後は別の外資系企業(アメリカやイギリスなど)でレセプション業務をしばらく行っていました。


33歳あたりのときに、知り合いから声がかかり、『Indeed Japan』に入社することに。
私が入社した頃は、日本でまだ立ち上がったばかりだったので社員も100人ほどでしたが、約3年で800人に増え、オフィスもどんどん新設されていきました。

はじめは、スタートアップならではの社風や取り組みが新鮮で楽しかったのですが、会社の成長とともにルールや社員の雰囲気が変わっていきました。

前向きに仕事をしようにも、まさに“出る杭は打たれる”状態。このままでは、自分らしく活躍できないと感じ、退職しました。

外資系企業を転々とする中で、「いくら外資系であっても日本の会社には変わりない」「やっぱり海外に行きたい」などと思うようになっていました。

一度きりの人生だから、自分に正直でいる


Indeed Japanを退職した同時期に、テレビ番組でマレーシア移住特集が放送されていて。マレーシアに移住した女性の、低コストなのに充実した暮らしぶりを見て、マレーシアへの移住を考えるようになりました。

本当に移住するなら自分の目で確かめようと思い、旅行をかねて3回ほど現地に足を運びました。

「ここで次の人生を過ごそう」と決意し、リクルーターに仕事も手配してもらいました。マレーシアでの仕事も無事決まり、4月から移住しようと考えていた矢先、コロナウイルス流行によって足止めをくらってしまいました。

これまでの生活が戻る兆しも見えず、どうするべきかと悩んでいましたが、人生は一度きり。このまま日本で過ごしていれば、自分を押し殺すことになってしまうと思いました。働き出してから自分の気性の激しさにびっくりしましたが、内向的だった頃よりも自分らしいし、人生も楽しい!私の人生には、“冒険”が必要なのだと思います。

行動しなければ何もはじまらないので、11月にマレーシアに渡りました。2週間の隔離生活の後、無事にマレーシアで働きはじめました。

仕事は、大手外資系のITや旅行業などの大手にカスタマーサポートを派遣していく会社で、カスタマーサービス業務を担っています。
さまざまな国のお客様からの問い合わせに応えるので、テキパキとした英語での受け答えが必要になる仕事です。これまでも仕事で英語を使っていたものの、電話越しに聞き取り、ニーズに応えていくのがとても大変でした。


仕事をはじめてから数ヶ月なのでまだまだ苦戦していますが、環境はとても良く、来てよかったなと感じています。

同期のメンバーは、韓国や台湾などグローバルな人材が集まっていて、年齢も新卒から30代まで幅広いので意見交換も楽しいです。

住んでいるのは、コンドミニアムという日本のマンションのような宿泊施設。家賃は安いのにとっても綺麗で、物価も日本の3分の1程度。
お金は経験に変えるのがモットーなので、お金を貯めて旅行に行きたいなと思っています。ちなみに今まで33ヶ国を周りました。

日本で生活していると、ずっと世間の目と隣合わせだった気がします。
「子どもはつくらないの?」「再婚はしないの?」など、その中で過ごしていれば、自然にその期待に応えようともしてしまうような気がします。

そんな生活から解放されたくて、今の生き方を選びましたが、後悔はないですし、自分に嘘をつかないでいられることがとても幸せです。

将来的には、今の会社でオフィスコーディネーターや人事の仕事に挑戦してみたい!日本人向けの美容サロンもまだまだ足りないのでマレーシアでつくってみたい!など、たくさんやりたいことがあります。

何歳になっても前向きに挑戦し続けられるように、これからも自分らしく、行きたい道を正直に進んでいこうと思います。

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Written by

MY

MY

大学卒業後、生活情報誌の記者を経てキッズファッション誌の立ち上げに携わる。2007年から大手人材サービス企業にて5000件以上の制作業務を担当。2017年以降、営業責任者として従事しながら地域振興プロジェクトの広報、新規事業立ち上げも担当。2019年から障がい者雇用を推進するクリエイティブ系の新事業をスタート。現在、複数の法人立ち上げにも貢献している。