■プロフィール
・中尾 俊平(ナカオ シュンペイ/大阪府交野市出身)
・高校までの少年時代は交野・枚方にて、順風満帆な学生生活を過ごす
・神戸学院大学経済学部に進学し、アルバイト・サークルに明け暮れる
・新卒で世界的メーカーである『ダイキン工業株式会社』に入社
・2004年3月、『有限会社 はなまる』を設立
・2021年現在、在宅介護・老人ホーム・保育園を総合的に展開し、約400名を抱える企業へと成長している
少し前まではハードルが高かった起業。令和になった今、以前と比べると少しライトになっているように思います。
やりたいことを実現できる手段が増加したからこそ、揺るがない軸や想いが重要な時代になっているのではないでしょうか。
今回は、大阪の枚方市に根付いて福祉事業を展開している中尾俊平さんにインタビューを行い、福祉事業に行き着くまでの経歴や仕事に対する想いに迫ってみました。
強くなることで見違えた世界
幼稚園の頃はとても貧弱な子どもでした。具体的な要因は覚えていませんが、なぜかいじめられっ子になっていましたね。
子供ながらにいじめられないように、人に合わせていた記憶があります。先生に助けてもらうこともしばしばで、先生との関わりだけは深くなり、今でも名前や顔を覚えています(笑)
小学校に上がってからも、いじめっ子と離れられず、このまま同じヒエラルキーが続くのかと感じていました。
そんなときに姉の同級生の男の子に「一緒にラグビーやってみない?」と誘われて。その誘いをきっかけに、身体つきや体力、メンタル面もどんどん強くなっていきました。
中尾は弱い奴というレッテルが、その結果を生む事に気付き、果敢に喧嘩をしたり、何なら僕の方が強いという奮起した行動をとるようになりましたね。
「強くなると世界が変わるんだ、良いことがある」と身をもって感じました。
この頃からはいじめもなくなり、友だちもたくさんできて、人気者になり楽しい毎日を過ごしていました。
中学生になっても、部活や勉強に真面目に取り組む姿勢は変わらなかったのですが、「おもろいキャラ」に目覚めました(笑)
友だちも面白い人ばかりだったので、中学生らしい、くだらない会話やじゃれ合いが本当に楽しかったです。
中学2年生から3年生の頃に彼女もできて。心斎橋のアメリカ村に一緒に買い物に行って、お揃いのキーホルダーを買ってカバンにつけるような、健全かつピュアなデートを重ねていましたね(笑)
それからというもの、勉強・部活・遊び・恋愛と超充実した学生生活を過ごしていました。
大人への一歩を感じた初バイト
高校にも部活する気満々で進学したのですが、日常生活にも支障が出るくらい腰を痛めて…
病院で診察を受けると、状態が思わしくなく、衝撃を受ける部活はダメだと言われてしまって部活を辞めることになりました。
ラグビーの知識があってフィジカルのメンテナンスもできるという理由でマネージャーを勧められたのですが、それを保留にしてバイトすることにしました。
バイトはコンビニに配送するパンやおにぎりなどの食品を仕分けする仕事で、倉庫での検品確認なども行う業務でした。
店長がとても良い人だったので、バイト終わりにその人の借りているマンションに寄って、一緒にカップラーメンを食べたり、外泊したりなど、親や学校の先生ではない大人との関わりが楽しかったですね。
仕事でもバイトリーダーを担当させてもらえるようになりました。
シフトの調整や管理、研修リーダーを決めるような業務を任せてもらえていたので、社会の縮図が見えた気がして、とても嬉しかったです。
ルーツになった大学での経験
その後神戸の大学に進み、一人暮らしがスタートしました。
まさに待望、念願といった感じでワクワクしていましたね。大学生活が始まる頃に、父親から生活費や学費などとして、1年分の仕送り(100万円)をまとめてもらったんです。多額なお金だと思っていたのに、あっという間の4か月でなくなりました(笑)
両親へ追加の仕送りをお願いすることも出来ないので、今後の生活費を稼ごうと思い立ち、寿司屋でアルバイトすることにしました。
後から聞いたのですが、両親はこうなることを想定していたようで、一人暮らしでお金の大切さを知る機会を与えてくれたようでした。
そんなこともあって、2年目からは8万円ずつの仕送りになりました(笑)
生活費の補填・賄いを目的に始めたアルバイトでしたが、勤務先の女将さんがとても良い人で、手厚く面倒をみてくれました。
面接を受けたときには「返事は“はい”の一択だから」と、理由も説明せずに言われていたのです。
はじめは怖い人なのかと感じていましたが、社会人としての振る舞いや礼儀を教えてくれるためだったと、感謝しています。女将さんは第二の母親。私のことを想い本気で怒ってくれて、人として成長させてもらえた存在ですね。
今でも付き合いがあって、他のバイト仲間も集めて同窓会をしたりするのですが、僕が社会人になり福祉事業をしていることをとても喜んでくれています。
バイト以外にも大学時代は印象に残っていることがたくさんあります。
1995年の1月17日に起こった阪神大震災では、被害がかなりあった地域だったので、10日間ほどは避難所へおにぎりを届けたり、仮設住宅パネルの運搬をするボランティア活動も経験させてもらえましたね。
被災地ではありましたが、友人達も怪我すること無く、当時入会していたサークルのメンバーと活動し、温かい人の絆に触れることが出来ました。
このサークルは、ザ・大学生って感じの調子の良いイベントサークルだったのですが、ここで憧れの先輩と出会ったんです。
その先輩はとても話上手で、とにかく話に惹きつけられました。こんな人になりたい思い、ルーティンを聞き、新聞を真似して取り寄せました(笑)
そんな成果もあってか、サークルでは部長になり、旅行会社に交渉してイベント旅行を企画したり、タイアップなどを行うようになっていましたね。
仕送りでの失敗から学んだ計画性と上達した話術を活かして、バリバリと活動し、最終的には「旅行会社に就職しないか?」とスカウトされるまでに。本当に充実した4年間でした。
介護との出会いは想定外だった
大学卒業後、空調・化学製品メーカーの『ダイキン工業株式会社』に入社しました。
もともと他の業界に興味があったので、この会社に就職するとは思っていなかったんですが、「学生こそ宝。今は0点でも今後成長していける」そんな井上社長の挨拶を聞いて感動したんです。
その後愛媛に配属になり、一生懸命仕事を吸収していきました。
先輩たちにとても可愛がってもらえて、仕事も遊びもたくさん教えてもらいました。週末になるとジェットスキーや飲みにも連れて行ってもらっていて、すごくありがたかったです。
愛媛だけじゃなく、高知でも仕事をさせてもらって、四国で過ごした時間は仕事も遊びも、良い思い出になっています。
入社2年後には大阪に戻り、引き続き営業に精を出していました。営業や現場での仕事はとても充実していたのですが、あることがきっかけで、“介護”や“起業”に興味が湧き出すのです。
そのきっかけが、整骨院を経営している同世代の友人との出会いでした。
その友人は、同世代なのにどこかキラキラしていて、自分にないものを持っている気がしました。
「オレも十分楽しいけど、この違いは何だろう」って。
ちょうど同時期に介護保険が民営化され、高齢者を地域で支えてきた時代から民間企業が介護サービスを担い、高齢者を支えていく時代へと変化することを知りました。人に触れ、感謝していただける仕事に興味を抱き、その友人と一緒に将来の夢や希望を語り合うようになりました。
考えや妄想はどんどん膨らんでいましたが、これまでの人生で介護や柔整などをしようと思ったことは一度もありませんでした(笑)
両親に相談しても「反対」の一点張り。
今までこれほど反対されたことはありませんでしたが、当時は反対を押し切ってでも、刺激のあるチャレンジがしたかったんですよね。
会社を退職したからといって死ぬわけではないですし、とにかく挑戦しようとデイサービスを始めることにしました。
手探りの経営はハプニングの連続
友人と協力しながら、はじめて経営したデイサービスがまさかの成功を収め、2店舗目も開業することになったんです。
しかし、2店舗目の開業にあたって、その友人と方向性がズレ始めました。経営って本当に難しいですよね。
向かいたい方向がどうしてもお互い違ったので、共同経営を解消しました。今に想えばその友人と過ごした期間は本当に心から感謝しています。このタイミングで枚方市に単独起業をすることになりました。
枚方は昔から福祉都市だったこともあり、やりたい事業を始めるのにピッタリでした。とはいえ、融資は整ってない状態。沢山の人にお世話になり、無理を聞いてもらってようやく体制が整った事を覚えています。
デイサービスを枚方でスタートしたのは良いものの、疥癬(かいせん)というダニによる感染症が事業所内で流行ってしまって。
これにより営業は一旦ストップ、倒産寸前まで追い詰められました。
金融機関に頭を下げながら自転車操業を行い、スタッフのみんなにも休みを削ってもらい、福利厚生も拡充できないままに沢山の協力してもらいながら、何とか立て直しできるようにみんなで頑張っていました。みんなの協力が実り、1年を過ぎると少しずつ経営がうまく回るようになってきたんです。
2年目は、横のつながりを作りたいという想いで、デイサービス協会を立ち上げました。
ケアマネージャーの会は既存団体があったので、その団体とのつながりを作り、福祉の輪を広げたいと考えていました。
団体を一から作るには規約やルールづくり、他のデイサービスへの呼びかけなど、やることが盛り沢山でした。
しかし、そのおかげで、当時枚方に60~70あるデイサービスで働く人たちの研修が実施できたり、横のつながりが広がり、結果的にすごく良かったです。
振り返ってみれば、大学生で一人暮らしをはじめ、沢山の失敗と成功から何をするにも計画を立てる習慣が出来ていました。おそらく本質的に順序を考えてゴールを決めることが好きだったんです。
この学生時代の好きや積み重ねが、事業の展開にも活きているのだと、このとき実感しましたね。
今では枚方市に多くの事業者会も立ち上がって、福祉の輪がどんどん広がってきているんですよ。当社の多くのスタッフも今、協議会の役員として活躍しています。苦労がカタチになり、本当に良かったなと思いますね。
福祉現場で今思うこと
僕が今一番感じているのは「スタッフ不足」の問題です。どこの業界も人手が足りていないのはもちろんなのですが、この業界は特に顕著。
世間で言われる、介護サービスの苦労や雇用条件のイメージから、資格はあるのに働いていない人が多いのです。
世間イメージの払拭も大切ですが、「ここで働きたい」と感じてもらえる労働環境の改善することが私たちの役目だと感じています。
多くの方に知ってもらいたい、もっと社会に貢献したいという想いから、上場やFC化を考えたことがありました。
しかし幹部たちは揃って首を横に振りました。
「代表それは僕たちが目指すことと合っていますか?のれん分けして今のように、はなまる魂が通った事業ができますか?」と言われて、ハッとしました。
もしそれをやっていたら、一緒に頑張ってきたスタッフが抜けていたかも知れません。私が考えている進め方が現場と一致しなければ動いていけない、と感じました。
「井の中の蛙、大海をしらず」という、ことわざがありますが、これを批判的なものとするのではなく、自分の手の届く範囲でより良い環境を整えていくことをこのときに決心しましたね。
だからこそ、地元に根付いた事業展開を目指していて、地元の人に働きたいと思ってもらえるような制度や事業をつくっていきたいと思っています。
これまでにさまざまな見直しを行ったおかげで、2019年には『健康経営優良法人』にも認定されました。
福祉業界という大きな括りの前に、まずは当社から人材もサービスも待遇も潤わせていかなければ、と邁進しています。
地域に密着したコンパクトな組織だからこそできることってたくさんあると思いますし。働くスタッフとも連携が取りやすいので、信頼して裁量大きく業務を任せています。
枚方市で「唯一無二のはなまるさん」と言われるのがゴールと言うか、目標ですね!
手の届く範囲の“特別”を目指す
事業はもちろんですが、個人としても日々学んで挑戦し続けたいと感じています。私が学び成長することで、管理職の刺激に繋がり、法人全体に良いエネルギーが充填されると思います。人に対してサービスをさせていただく私たちが、心身共に健康であることで、人に対して優しく温かい感情で接することが出来ると考えます。
愚痴を言うだけの評論家にならないように、出来るための方法を模索しチャレンジする姿勢で、能動的に行動する私たちで有り続けます。
今後は、安定第一・安全第一ではありますが、はなまるグループで出来る分野にも挑戦しようと計画しています。
これまでと変わらず、大きさはコンパクトに。手の届く範囲の“最上級”な事業を提供し続けていきたいです。