1960年代に誕生した小劇場演劇はさまざまな歴史を経て全国に広がり、現代も各地の小劇場で、日々多くの作品が上演されています。
1つの舞台を作り上げるには、演者はもちろん、脚本家や演出家、音響、照明などさまざまな方の存在が欠かせません。
今回インタビューを受けてくださった前野祥希さんは、役者を経て脚本・演出家として劇団バルスキッチンを旗揚げ。東京・高島平に設立した「バルスタジオ」でさまざまな舞台を上演されています。
そんな前野さんに、劇団旗揚げまでの経緯や舞台を手がける上でのやりがい、今後のビジョンなどを語っていただきました。
前野 祥希(マエノ ヨシキ/1991年3月23日生/千葉県)
・高校卒業後、役者として舞台やCM、映画などに出演
・2018年、初のプロデュース舞台で脚本・演出デビュー
・2019年、劇団バルスキッチン旗揚げ。劇場「バルスタジオ」を設立
・現在は脚本・演出家、演技講師として幅広く活動中
彼女の一言と思わぬ依頼が、現在の立ち位置になるきっかけに
脚本・演出家を目指そうと思ったきっかけは何だったのでしょう?
僕はもともと役者をやっていて、22,3歳の頃に今の妻と出会いました。お付き合いをして1年半くらい経ったときに、当時彼女だった妻に「3年以内に生活できる状況ができなければ別れる」と言われたんです。
それまではお金じゃなくて出番が欲しいという感じでやっていたのですが、「生活をちゃんとしなきゃいけないんだな」と考えるようになりました。
どうしようかなと思っているときに、たまたまバイト仲間に「脚本を書いて欲しい」と言われて。その後に「演出もやってほしい」と言われて、どちらも経験がなかったのですが、やってみることにしました。
その経験が、今につながっているんですね。
そうですね。ただ、ふたを開けたら丸投げだったんです。しかも脚本を書いて劇場も押さえて、と進めている間に頼んできた人がいなくなってしまって…。
でも、とにかくやるしかないということで何とかやりました。結果、そのとき書いた脚本が笑える話だったのですが、脚本も演出も反響がよくて、「いけるのかも」と思わせてくれました。
さまざまな経験や出会いから、劇団旗揚げへ
そこからはどういった経験をされましたか。
個人プロデュースで舞台を3回行いました。今思えば、そこで小さい成功を積み重ねていたのが大きいですね。
でも3回目の公演を終えたところで少し行き詰まることがあって。役者時代にお世話になった演出家の方に連絡をしました。
助手として、行動を共にしながらノウハウを沢山教えていただいたのですが、その方が舞台を組んでくださって、2本目の脚本を書く機会をいただきました。
それが結果として、成功したと…。
そのときが、事前にお金を頂いて脚本を書く初めての機会でした。自分が一生懸命書いたものを初めて出会う人たちと演出して、ある意味初めてだらけの勝負だったと思います。
それが結果的に成功して、当時の役者時代の先輩にも「面白かった」と評価していただけました。その先輩が知り合いの経営者の方に僕のことを話してくれて、「これから頑張ってやってみたら」と応援してくださることになり、劇団が始まったんです。
現在は前野さんを含め10名で活動されているそうですね。
初期からいるメンバーは1人で、入ったり辞めたりで今のメンバーになりました。全員が役者ではないので、舞台をやるときは役者の数が足りません。
なので、オーディションをして出演してもらったり、知名度のある方に客演(ゲストとして出演)していただくこともあります。ちょうど先日までモノマネタレントのりんごちゃんに出ていただいていました。
メディアに出ている著名な方をお呼びすることもあれば、舞台界で有名な方に客演をお願いすることもあります。
毎回キャスティングが肝になるのですが、最近は作品を見てくれた関係者の方や出演してくれた方がバルスキッチンの舞台を広めてくださり、「知られているんだな」と認識させていただく瞬間が多くあってうれしいですね。
演劇ライト層にも気軽に見てもらえる脚本を目指して
脚本や演出でこだわっていることは何でしょうか。
演劇って、「わからない」「見に行くのもこわい」「興味はあるけど背中を押されないと行かない」という方もけっこういるんですよね。入り込みづらいという印象も強いので、一番はそういう方にも楽しんでいただける舞台を作ること。
『誰が見ても笑って泣ける舞台作り』を心がけています。
難しくなく、当たり前に楽しめるコンビニ感覚で入れるような内容を目指すなかで、コメディは笑って観られて、終わったあとも「面白かったな」「活力になるな」と思ってもらえるのでこだわっています。
「泣ける」という部分については、そこまで比重を置いているわけではありませんが、笑いは絶対にあったほうがいいですよね。
脚本家、演出家はご自身に向いていると思いますか。
もともと自分も役者として舞台に出ていましたが、当時は目の前の大人の事情などを認められなくて、脚本家や演出家に文句のある主張の強いタイプでした。若さもあったのでしょうね。
でもそういった経験をしたからこそ、当時いやだと感じたことをなるべく削りたいという気持ちでやっています。演出家に必要なのは座組をまとめる技術よりも、求心力じゃないかな、と。
そういう意味では、僕は学生の頃から部長や応援団長をやっていたので、性に合っているのではないでしょうか。
舞台を通して、高島平を盛り上げたい
舞台を通して、お客さんに伝えていきたいメッセージはありますか。
舞台を見て「こういう気持ちになってほしい」ということはあまりありませんね。おこがましいというか…。
僕は「これを笑えると思って書いて準備はいっぱいしたし、いろんな角度からアプローチしたけど、笑えなかったらごめんね」という、お客さんへのお手紙みたいな感覚です。そういう思いが届いているかが、笑いというリアクションにつながると思っています。
前野さんが今後目指していることはありますか。
町おこしです。高島平というローカルな土地でやっているのですが、僕たちが劇場を作って公演することで、高島平に足を運ぶ人がいるのは確かです。
なので、これをもっと数字で表せたら、区や地域にも町おこしのためのビジョンなどの話を聞いてもらえるのかなと思っています。
町おこしの一環として、演劇とは異なるフィールドですが飲食店もやりたいですね。舞台を見に来てくれた人が飲みに行けるような…。
舞台も面白いから行くし、飲みにも行きたいから、「高島平でバルスの舞台と飲み屋に行こう!」という観光地的な場所を作って行きたいなと考えています。舞台を軸として、そういう政治や自治体にメリットを感じられるような動きも、やっていきたいです。
小屋作りの際に高島平を選ばれた理由はありますか?
もともと今のバルスタジオで劇場っぽいことをやっていた方がいて、引き継ぐ人を探していたのを紹介していただきました。
僕、けっこうやりたいことを周囲に話すんですよ。言っちゃったらやらなきゃいけないと自分でも思えるし、そうやって周りに話すことで、「あんなこと言ってたな」と連絡をいただけたりするので、ありがたいです。
仕事は楽しくできるもの。やりたいと思ったことは行動や言葉に
今の職業ではどういったやりがいや苦労を感じていますか。
僕の脚本や演出を「面白い」「よかった」と思ってくれる人が増えれば、どんどん好きになってくれる人も増えます。そういう意味では、承認欲求が満たされるという部分はありますね。
劇団のメンバーがついてきてくれたり、客演をお願いして快く受けてくださったときも、それは信頼されているということなので、自分がやったことが毎回成果として感じられるのは、やりがいだと思います。
苦労したことは、スタートの頃は「内部のことは自分でやるから、役者は役者に専念していい」と言ってしまって。衣装から小道具、スケジュール、スタッフィング、稽古など、すべて自分でやっていたので大変でしたね。
今は、人に委ねて仕事をしてもらうことも増えて、いろいろな予防線を張って動いているので、身体は楽になりました。でも心配事が多くて、心労のほうが大きいかも(笑)いろいろな苦労もありますが、成果ややりがいがあるから頑張れます。
ありがとうございました。最後にハレダス読者にメッセージをお願いします。
どんな仕事でも、僕は自分の考え方次第で全部楽しくできると思っています。ただ、それが自分の傷をなめているような感覚になってしまう人ももちろんいるだろうし、惰性になる人もいるし、反対にポジティブになれる人もいる。考え方次第で白にも黒にもなるけど、やりたいことがあるならやったほうがいいです。
形にするまで自分でも本気で考えているかわからないし、やってみないと分からないこともあります。大人になるまでに、やりたいことの実現にたどり着けるぐらいの出会いはあるものです。 だからやりたいことや悩みがあれば、とにかく周りに相談して実現に近づければいいかなと思います。
バルスキッチンはまだまだ知名度が高くない団体ではあるけど、これまで僕がやってきた事実はあります。もし演劇の業界に興味があれば、僕に相談してほしいという気持ちがあるので、夢や希望がある方はぜひそうしてくれたらと思います。
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