働くことはひとつの自己実現の方法です。その手段をどう活かし、何に満足するのか、人それぞれ満たされるポイントは違っているはずです。今回取材したのは、これまでミスユニバースなどの大会で優勝し、モデルとしても華々しい活躍をされる矢田百恵さん。モデルだけでなく、防災士としての一面も持ち合わせています。そんな彼女に現在の働き方に至った経緯や、働き方との向き合い方などを伺ってきました。
■プロフィール
・矢田 百恵(ヤダ モモエ/1997年8月9日生/三重県四日市出身)
・18歳当時、日本で最年少のミスユニバース代表として、テレビや雑誌等のメディアに出演
・その後、パリコレクション、ロンドンコレクション、フィリピンなど海外でのモデル活動も多数
・20歳の時、ミススプラナショナル神奈川県、ミスアジアパシフィック日本代表、MISS INTERNATIONAL JAPAN 2018ではトップ8に入賞
・その後、ミスオーラ日本代表としてトルコでの世界大会、ミスアジアパシフィック日本代表として、中国での世界大会へ出場。ミラノをモデル活動の拠点とし、オフシーズンにはフィリピンやベトナムにてモデル活動
・防災士の資格を持っており、青年赤十字のメンバーとして地域社会貢献を行う顔も持つ
地元のデパートからすべてが始まった
現在モデルとして活躍されていますが、幼少期からの夢だったのでしょうか?
幼い頃は、バレーや水泳、硬式テニス、ゴルフなどを習っていて、とにかくスポーツが大好きでアクティブな女の子でした。当時は特にモデル業を志していたわけではなく、中学生まで身長の高さをコンプレックスに感じていて、普段の生活でも背が高く見えないようにわざと猫背にしていたほどです。
コンプレックスを長所に変え、モデルを志したきっかけは?
雑誌などでモデルさんを見ていると、身長の高さが長所になるお仕事だなと感じていて、自分のコンプレックスも活かせるのかもしれないと思いました。
モデルになりたいと本格的に思ったのは、中学2年生のとき。地元のデパートでキッズファッションショーに出たのがきっかけです。ランウェイを歩いて表現しているときに「何これ楽しい、優勝したい」と思ったんです。もともと人見知りの性格なのに、モデルとして舞台に立つのは不思議と楽しくて。
最終選考のスピーチで「私、モデルになります!」と宣言したものの、このときは優勝できませんでした。
その後どのようにしてモデルになったのですか?
デパートでランウェイを歩いた直後から本気でプロのモデルになろうと決めていたので、モデルの育成プログラムを受け、必死にウォーキングレッスンなどに励んでいました。
その後、一人で三重から名古屋まで行き、モデル事務所のドアをノックしました。そこからがモデル人生のスタートです。
思い立ったら何事にも“即”トライ
モデルの仕事をしながら高校生活を送っていたのでしょうか?
そうですね。モデル業と並行して高校3年間は、これまでしたことがない分野に挑戦したいと思い、写真部と書道部、JRC部という3つの部活に入部しました。
JRC部では、青少年赤十字の活動、献血や地域のボランティア活動を中心に、海外の赤十字団体の代表者との意見交換や発表をしていました。
防災士としての顔も持つ矢田さんですが、それらの部活動経験が関係しているのでしょうか?
部活動というよりも、高校生活での学びからですね。17歳のときに先生から勧められ、3.11の震災などを例に、地域での減災につながる取り組みを行っていきたいと思い、この資格を取得しました。
底知れぬ行動力には感銘を受けるほどです。
ミスユニバースへの挑戦も同時期ですよね?
はい。同時期にミスユニバース三重大会を観客として見に行く機会があったのですが、そのときに衝撃を受けて。その衝撃と同時に、「私だったら、こう表現したい」とアイデアが溢れたのです。
そこで所属していた事務所の社長に、ミスユニバースへの出場を直談判しました。しかし、何度話しても「あなたにはまだ早い」とNGが出ていました。それでも私の決意は揺るがず、「出られなければ事務所を辞める」と伝えてやっとOKが出ました。
初出場で優勝。最年少でミスユニバース三重県代表に
美の最高峰として称されるミスユニバース。大会はいかがでしたか?
ミスユニバースのコンセプトは、「強くたくましい女性でオピニオンリーダーになれる存在を目指す」というものです。外見の美しさよりも、「知性・感性・人間性・誠実さ・自信」などの内面が審査の重要なポイントになり、それらを総合的に判断して美を競います。
それらを兼ね備える女性であるかどうかを判断するために、コンテスト直前にビューティーキャンプという合宿があり、候補者達が2週間ホテルに缶詰になって、ウォーキングなど美の強化を行うのです。
女性の世界なので、2週間共同生活をしていればたくさんのハプニングや問題が起こります。その合宿後に疲れ果てた状態でコンテストを行い、1位を決めるので大変でしたね。でも、とても楽しかったですし、かけがえのない経験です。
ミスユニバースの代表になって変化はありましたか?
ありがたいことに、事務所でのモデル活動も順調に増え、ミスユニバース代表としてさまざまな活動をするようになっていました。嬉しい気持ちはもちろん、スケジュール管理や調整も自分で行っており、忙しさに追いつけなくなっていました。
プライベートでも、モデルだからというだけで周りから「すごい」とチヤホヤされ、それが嫌になっていました。そういった状況もあり高校卒業後、一度事務所を退所することにしたのです。
当時はモデル業を辞めてしまっていたのですか?
高校卒業後、モデルとして見せる側から作る立場の仕事にも携わってみたいと考え、雑誌の編集者として働きました。
ただ、ミスユニバース代表としての活動は1年間と決まっていたので、活動も並行して行うことを許してもらい入社しました。ミスユニバース三重の活動は、地域イベントのMCやラジオ番組の出演、一日警察署長、イベントのPR大使などでした。
その活動をしている頃に、パリコレに出展しているアパレルデザイナーと出会ったのです。これがきっかけで、19歳のときにパリコレに出演。
そこから縁がつながって、海外でのコレクションでウォーキングができる機会があり、海外での活動に興味を抱くようになりました。
出会いが視野を広げ、私を成長させた
その後実際に渡航されましたか?
フィリピンのセブ島に、語学を学ぶべく3ヶ月間留学することにしました。しかし、現地で1週間も経たないうちに、同じ毎日の学校生活につまらなさを感じてしまいました。
せっかく海外にいるので「海外でモデルをやってみよう!」と思い立ち、セブ島にあるすべてのモデル事務所に履歴書を送りました。語学学校の先生にも助けてもらいながら、履歴書はすべて英語で書きましたね。
気持ちに素直で壮麗ですね。結果はどうだったのでしょうか?
嬉しいことに全部の事務所から返信がきたんです。その中から安心して所属できそうな事務所を選び、面接に行きました。その事務所でモデルとして採用してもらい、ブライダルのファッションショーなどを中心に出演していました。
しかし、私は学生VISAで留学していたのでお金を得て働くことができなかったのです。給料は発生しなかったのですが、モデル活動はできることになりました。
経験の中で心境の変化はありましたか?
たった3ヶ月の期間でしたが、とても濃密な時間を過ごせました。そして新たに出会えた仲間とのふれあいはすごく楽しくて充実した時間でした。その経験が海外進出への想いをさらに強めましたね。
その後、ロンドンに1週間滞在し、ファッションショーや現地の大きなイベントに参加しました。
20歳を過ぎた頃にはモデル事務所には所属せず、次世代のミスユニバースとなりうる候補生に向けてウォーキングの講師として、レッスンを担当していました。
自分自身も挑戦し続けていたかったので、世界五大ミスコンテストのひとつであるミススプラナショナルに参加。アジアパシフィックナショナル日本代表になり、フィリピンで開催された世界大会に参加しました。
大会はやはり大変だったのでしょうか?
大変というよりも、世界各国の仲間と生活をする中で言語や文化は違えど、モデルとして、同じ女の子として悩みを持っている方との出会いに共感と刺激を受ける機会でした。
その後フランス、イタリアでのモデル活動を本格始動させました。そのときの方が、何かと大変だったように思います。
現地の事務所に入るために、2週間ほどの期間で色々な準備を行い、現地の事務所と契約。住む場所は「モデルズアパートメント」という事務所に所属する各国のモデルとの共同生活でした。
一緒に生活をする中で、彼女たちとの考え方や生活スタイルの違いを実感することがたくさんあって、同じ女性でも本質的な違いがこんなにもあるのかと驚きましたね。
世界で活躍するときにさまざまな大会で日本代表として出場した回数の多さは、私自身のモデルとしてのステータスであると自負しています。
経験、出会い、挑戦。すべてが私になっている
海外での活動が中心になってきたときの親御さんの反応はいかがでしたか?
女の子一人で海外というのは、はじめは親も心配していましたが、私の海外での活躍を目にし、経験したことを伝えているうちに応援してくれるようになりました。
現在の状況下になる前までは、ベトナムと日本を中心に活動していましたが、コロナの影響を受け、今はモデルの基礎を教えてくれた名古屋の事務所に復帰しました。
前向きに挑み続ける矢田さんですが、今後の目標について聞かせてください。
自分自身をアップデートしながら、モデルとして女性みんなの夢になれたらいいなと思っています。目指しているのは藤原紀香さんのような、“健康美”。
日本では、“かわいい文化”が根強いのですが、自分が持っている個性・魅力を活かし発揮していくための健康美を追求していきたいと考えています。憧れの誰かになるのではなく、私の理想とする“矢田百恵”を目指します。
また、これまで関わってくださった方に、「矢田百恵、こんな形で頑張ってるんだ」と思ってもらえるよう、地元・三重にも貢献できる活動をしていきたいですね。
具体的に考えている活動はありますか?
これまで私が培ってきた健康や美に関する知識を活かしたショップの開設や、海外へチャレンジしたいと思っている方のサポートもしていきたいと感じています。
そのためにも、海外とのコネクションのパイプなども活かしながら、復帰した事務所でもっと経験を積まなければと考えています。
素敵な目標をお聞かせいただきありがとうございます。最後に働き方に悩む読者に向けて、メッセージをお願いします!
私自身、自分の活動や人生を振り返ったときに、「家族や仲間、応援してもらっている方のため」という気持ちが根本にあることに気付きました。誰かが見守ってくれていること、応援してくれていることが仕事の原動力になっていたのです。
自己実現をしていくのはもちろん自分。ただ、誰かがいることで頑張れる理由になるし、輝けると感じています。
私も、モデルという仕事のきっかけをくれた事務所に復帰したことで、これまでお世話になった方へ恩返ししながら輝いていこうと思います。将来のことなんて、見通しは立っていないけれど、どんな選択であっても自分に偽りなく、自分らしくありたいです。